2011年3月18日金曜日

安堵

先ほど、メールにて連絡があり、ご案内した工務店及びホスト役の担当者さんも全員無事である旨の確認が取れました。今は安堵の気持ちで一杯です。よくぞご無事で、これもきっと神様の思し召しでしょう。ほんとうによかった。安心しました。
 しかし一方で報道を見ると、生き残ったとはいえ被災地はさまざまな困難に喘いでいます。避難先の施設が寒すぎて、せっかく生き延びた方々が亡くなる光景は、設計者としてほんとうに辛いものです。九死に一生を得てこれから復興のために生きる機会を得ながら、ほんの少しの電気や灯油、本来必要な断熱設計の知識が不十分なために失われる尊い人命を思うと残念で残念でたまりません。化石燃料がなくなるのはもともと分かっていたはずなのに、震災で電気がストップしたら暮らしが成り立たないことも分かっていたはずなのに...中でも印象に残ったのは「寒いのは燃料がないから仕方がない。辛いのは自分たちだけではないのだから。」といって亡くなられる方々の言葉です。
被災者の方々が避難されている学校や病院は十分な採光面積が法律で定められています。今回の津波の影響を受けなかった3階以上の階になればなるほど太陽の光は下階よりもずっと強くなります。光が強ければ強いほど現場に必要とされている熱も豊富になります。さらに多数の被災者の方々は大人一人100W、子供でも50W以上の昼夜を問わない安定的熱源です。つまりはせっかく生き残っても、避難施設の断熱水準が低すぎるがために二次被害が拡大してしまうのです。エネルギーに頼ることなく生存可能な室温を得ることは、地震の揺れや津波の力に耐えるのと同じくらい大切な設計上の要件です。災いは夏場の季節のよいときに集中するとは限りません。最初の揺れに耐えた後は停電や断水が当然なのですから、いかに自立的にエネルギーに頼らずに暮らせるかといった観点に立って建築すべてをもう一度見直す必要があるのではないでしょうか。
 誤解がないように付け加えますが、私はけして震災の準備のために断熱の必要性を説いているわけではありません。必要以上の動力設備は燃費の悪さや費用対効果等々のさまざまな副作用を伴いますが、断熱は平時にもほとんどそうした害を与えません。むしろ少量のエネルギーで冷暖房の効きを安定させ、夏の暑さや冬の寒さから身を守ってくれます。もっとも控えめで信頼性が高く安価で簡単な方法にどうか今一度目を向けてほしいものです。仮にこうした不安に備えて動力設備で備えようとすればするほど、100年に一度あるかないか分からない事のために多額の設備投資が必要になり。いざ肝心な時には故障して動かないといったまさに現在の悪循環に陥るのです。雪国にとって冬は清らかな白の世界と思われるでしょうが、同時にそれは死の世界でもあります。そんな厳しい時期を毎年半年間も抱えながら春に命の息吹を感じるのは、冬季間、雪が断熱材として小さな命を凍死の危機から守るからに他なりません。すなわち断熱の根源的な役割とは暑さや寒さを穏やかにして、「命を生かすこと。」そのものなのです。ですから肝心なときにその中で寒くて生きられない建物はどんなに立派に見えても本来の役割を果たしているとは言いがたいのです。
被災地で苦労されているみなさん。中には大切な方を失って途方に暮れている方も多いと存じます。心よりお見舞い申し上げるとともにご冥福をお祈りいたします。しかし生き残ったのならばこそ尊い犠牲が意味するものも同時に思い出してください。亡くなられた方々の願いをどうぞ無にしないでください。街は一時失われても、街を愛する人が絶えねばまたつくることができます。みなさんが必死になればもっとよい街にすることもできるはずです。大工たちに連絡は取れますか?各工種の職人たちはどうでしょう?資材は少しでも手に入りますか?どうぞ早く街に槌の音を響かせてください。職人たちにもう一度仕事を与え、ものをつくる誇りを取り戻してください。私はいつでも応援いたします。一日も早い復興を心よりお祈りいたします。